府中家具の歴史

箪笥の登場

 着物を収納する衣裳箪笥は、江戸時代の寛文年間 (1661年~1673年) に大坂で造られたのが最初と推側されており、元禄文化が華やいだ頃、女性の普段着として丈か短く袂に丸みが付いた“元禄袖”が流行したのと同時に衣裳箪笥も各地へ普及していったようである。 しかし当時、箪笥をもつことができたのは一部の上流階級の人たちだけで、一般の人々は竹・桧などで編んだ葛籠や行李と呼ばれる小型の箱や、櫃・長持と呼ばれる大型の木箱に衣類や蒲団など一切合財の家財道具を入れて収納していた。
 そもそも、その当時の庶民生活は非常に貧しく、衣類がほころびたら継ぎはぎをして着るのが当たり前のことで、衣裳箪笥が必要になるほど多くの衣類を持ち合わせていなかったのである。 箪笥は、たくさんのものを整埋して収納することができ、出し入れも便利であるが、長持などの箱と比べると引出しが付くために材料も数倍必要となるし、製作にも手間暇がかかる。そのためどうしても高価になり、貧富の差が激しかった当時の庶民には手が届かなかったようだ。

 ちなみに、江戸初期に使われていた長持は、下部に車輪を付けて綱で引かれるようにした“車長持”と呼ばれるもので、災害のときの非常持出しとして便利であったため広く一般に普及していた。しかし、いざ火事という時、皆が一斉に引き出して逃げようとしたため、路地がふさがれて逃げ場が失われ、明暦大火の際には大惨事がおきた。そのため天和三年(1683年)に江戸、大坂、京都の三都では車長持の製造が禁止されてしまった。
 その後に造られた長持には、両側に棹通し (棒通しとも言う) と呼ばれる金具が付き、それに棹を通して二人で肩に担いで運べるような横造となった。古い箪笥の殆どのものにも持ち運びやすいように同様の棹通し金具が付いており、箪笥の数を一棹、二棹‥と数える語源はこうしたことから由来する。
 なお、庶民にまで衣裳箪笥が普及するようになるのはそれからずいぷん後の江戸後期から幕末にかけてからで箪笥の歴史は思ったより浅い。

府中家具の生いたち

 府中において箪笥づくりがはじまったのは、「宝永年間に備後国有磨村の内山円三が大坂で箪笥の製法を修得し、帰郷後製作に着手したのが始まりで、そのころ広谷村鵜飼に住んでいた指物師の内田多吉がこれを学び‥」と記されており、大坂で初めて衣裳箪笥が登場してから40~50年後のことである。
 宝永元年を西暦に直すと1704年で、今からおよそ300年前にあたり、宝永の直前は江戸文化が爛熟した元禄時代である。2年前の元禄15年 (1702年) には忠臣蔵でご存じのように赤穂浪士が吉良上野介邸を襲って、主君浅野内匠頭の仇を討つ事件が発生している。
しかし、その頃は箪笥に対する需要そのものが少なく、しかも府中の近隣に大きな消費地があるわけでもなく、江戸時代から府中で箪笥が造り続けられていたものの、当時はまだ産地と言えるような状態ではなかった。ただ、長持や建具など各種の木工製品が府中で盛んに造られていたことは確かで、板や角材を巧みに指し合わせる優れた指物の技術が連綿と受け継がれ、今日の府中家具の礎となった。

木工神社

 江戸時代における、府中での箪笥づくりに関する資料は乏しいが、現存する家具メーカーのなかには、安政年間ないし慶応年間の創業があり、また、当時の繁栄ぶりを物語る証しとして、府中八幡神社の境内に末社として 「木工神社」 が古くから祭られている。この神社は、大工祖神社あるいは太子さんとも呼ばれ、嘉永年間 (江戸後期のl850年頃) に府中町の指物師や大工などの木工関係者が寄進して建立された。
 明治33年には、指物師の松岡新兵衛氏らが中心となって改築されており、社は木工の神様にふさわしい精巧な彫刻や細工が施されている。例祭は旧暦の2月22日で、戦前までは箪笥業者が集まり神楽などを舞って賑やかに祭りが催されていた。第二次世界大戦が激しさを増してから祭りは途絶えていたが、近年復活して毎年例祭が行われている。
 御神体は、日本書紀の国譲りの神話にも登場する手置帆負神 (たおきほおいのかみ) と彦狭知神 (ひこさしりのかみ) で、手置帆負は物差しの無い大昔、手の平を物の上に置いて長さや幅を計った神とされ、彦狭知は元来、盾を作る神であり“狭知”より物差しである“さし”の名称が付けられたと云われている。

明治時代の箪笥造り

 明治の頃には、多くの農家で農閑期の副業として箪笥や長持のほかに、生活に必要な各種の木製品がつくられていた。しかし箪笥のように大きくて重いものを遠方まで出荷するのは困難で市場は限られ、もっぱら近郷近在からの注文が主であったようである。
資料によると、明治の初め頃に鵜飼に住んでいた赤毛喜平(あかもきへい) 氏は、造った箪笥を自分で木負子に背負ってはるばる尾道方面へ売りに歩いたと書かれている。後年になると大八車などに積んで運搬するようになった。大八車は、木でできた車輪に鉄の輪をはめた荷車のことで、代八車とも書き8人の代わりをする車という意味である。こうした大八車も箪笥の職人達が兼業で造っていたらしく、木で頑丈な丸い車輪を造るにはかなりの技術を要したようであるが、府中の鵜飼地区で造られた大八車は丈夫で長もちすることが評判となり、当時「鵜飼の車と宇津戸の唐箕」という言葉が流行ったくらいである。ちなみに、唐箕は籾殻などを選別する農具のことで甲山町の宇津戸が有名であった。

 備後府中は、山陰の石見銀山から山陽へ通じる石州街道筋に位置し、古くから物流の要衝であったことから、当時は府中市村 (ふちゅういちむら) と呼ばれ市場町として栄えていた。中国山地から伐り出された豊富な木材は、芦田川を筏に組んで流したり、この街道を通って福山方面へと運搬されていた。その中継点に位置する府中は木材の集散地であり、容易に材料が入手できたのでこの地で古くから木工業が栄えた要因の一つである。
また、瀬戸内の温暖な気候や適度な雨量が木材を自然乾燥させるのに適し、仕上がった製品がひずみや狂いの少ない良質のものが出来ることが評判となり、産地が形成していったものと思われる。箪笥の他にも色々な木工業が盛んであった当地では、製材品の需要が多く、比較的早くから動力化が進み、初期の頃には芦田川と出口川が合流する「剣先」という所に、大きな水車を動力源とした製材機が設置され活発に製材が行われていた。松永下駄の開祖として知られる丸山茂助氏は、明治30年頃に府中の木挽き業者が水車を利用して大規模な製材を行っているのを視察して大いに啓発され、後年、蒸気機関による製材を始めたと記している。

備後の桐

 昔、農家では娘が生まれると庭に桐の苗木を二本植え、成人して他家へ嫁ぐとき、その桐を伐って箪笥や長持と物々交換をしていたと云いう。
 桐は、湿度の通過性や熱伝導率が極めて小さい特性を持っているため、古来から貴重品を保存する箱に用いられるなど、箪笥の材料としても重用されました。また、成長が早く15~20年経つと成木になって家具材として十分使えるようになることから、このような風習が根づいたようだ。
 現在、備後地方に生えていた桐の樹は伐り尽くされて量が減っているものの、元来この辺りには“備後桐”と呼ばれる良質な桐がたくさん自生しており、福島県の“会津桐”や岩手県の“南部桐”とともに著名な生産地であった。
 こうした豊富な桐材を使って府中の桐箪笥のほかに桐箱 (府中)、桐下駄 (松永)、琴 (福山) などが古くから作られ、全国的にも名の知られるような桐材加工産業がこの地方に育った。

大正時代の箪笥生産

 大正3年に府中~福山間に両備軽便鉄道 (現JR福塩線) が開通すると、貨車やあるいは船便に積替えて遠方まで箪笥が出荷されるようになった。同時に、遠隔地から大量の木材が入荷するようになり、箪笥に用いた材料の種類はこれ以降急激に増えている。
 また、同年には第一次世界大戦が勃発しており、日本経済は軍需景気により大いに潤い、貧しかった日本国は未曾有の好景気に沸いた。「成り金」という新語が生まれたのもこの頃である。箪笥の需要もこの頃を境に急激に伸びており、府中町、広谷村、岩谷村における箪笥生産量の推移をみても大正元年に10、178棹であったものが大正7年には32、973棹と、わずか6年間で3倍に増大している。当時はこれらの地城以外でも箪笥生産が行われており、現在の府中市全体を合わせるとかなりの量が生産されていたことになる。
 大正4年の山陽新報 (現在の山陽新聞) に府中町と広谷村での箪笥生産の概要を報じた記事があり、それによると府中町は古来より箪笥が名産として聞こえ、遠くは九州、満州、韓国にまで出荷していたことが伺える。一方、広谷村は箪笥の生産額が年々増加し、ますます発展することが期待されている。事実、広谷村の鵜飼では大正の中頃から昭和の初めにかけて箪笥職人の数が急増しており、現在のJR鵜飼駅から北へのびる細い道筋二百メートルの間に百数十軒もの箪笥職が軒を連ね、朝早くから夜更けまで鑿や鉋を使う音が絶えなかったと云う。

鵜飼箪笥について

 大正時代には、府中町と広谷村の鵜飼地区に箪笥職人が集中していて、府中町でつくられた箪笥を府中箪笥と言うのに対して、鵜飼でつくられた箪笥は鵜飼箪笥と呼ばれていた。郷土史家の杉原茂氏は、元広谷村長の皿田清人氏から大正時代の広谷村における箪笥生産の状況を次の如く聞き取られている。
 当時広谷では、赤毛吉次郎 (村会議員)、迫田栄一 (村会議貝)、真田作助 (村会議貝)、藤田庄一郎、道路平助の5軒が大手の箪笥屋であり、鵜飼箪笥と言っていた。この5社は、職人を各4~5人ないし20数人かかえ、箪笥製造をすると共に、各戸の家内工業者の生地箪笥を買い上げて、これに塗装し、金具を付けて広範囲に売りさばいていた。この他に箪笥の塗装専門の業者が数人いた。皿田吉之助、宮崎芳一、塚本嘉六、真田朝男、皿田馬之助、森本四郎らであり、塗装のかたわら箪笥の売買もしていた。更に木挽き (製材) 専業、箪笥の運送を専業とする者がおり、鵜飼地区で箪笥に関係した家はl40~150軒あり、役場、教員等の公職を除いた殆どがこれに携わった。小学生の作文に将来何になるかとの宿題に「箪笥屋になる」と書いた生徒が多かったようである。
 農業と兼業の家内生産者たちは、村内または近郊の農家などからの注文生産のほか、遠方の間屋にも箪笥を売りさばいていた。遠方といっても現在のようなトラックのなかった時代で、荷車で運べる範囲であった。三原 (一泊二日)、尾道、笠岡、総社、倉敷、上下町などが主な販路であった。
 鵜飼を夕方出発して夜通し歩いて車を引いた。特に、尾道、三原方面には険しい山越えがあり、大八車に牛をつけた。当時、鵜飼には50頭ほどの農耕牛がいたが、牛に車を引かせる時は夫婦で出発し、峠の坂道を越えると後は主人にまかせ、妻は牛を連れて一足先に帰宅したという。

昭和初期の職人生活

 昭和初期の府中における箪笥づくりの様子を、(財)日本はきもの博物館の市田学芸員が、マルケイ木工㈱ 前会長の橘高恵助氏や㈱松創会長の松岡英一氏から次のように聞き取り調査されている。
 昭和初め頃の箪笥生産は、生地作りと仕上げ・販売は分業になっており、箪笥職人は生地を作って卸と呼ばれる大手の箪笥屋に渡し、卸では塗り(塗装)と金具付けをして間屋や小売店あるいは注文主に販売していた。
 箪笥職人になるためには先ず弟子入りをする。弟子入りには通いと住み込みとがあり、通いで2年、住み込みで4年の修業のあと職人になれた。弟子入りした最初は、先ず木釘削りや鋸の目立て、鉋の研ぎ方から覚え、荒仕上げの削りもの、鋸挽きなど堅木の加工から習っていく。 朝は、先ず研ぎ水 (研磨用の水) を準備し、接着に使う膠 (にかわ) を火にかけて溶かし、刃物を研ぐことから始まり、掃除一切をする。 技術は親方から教えられるものではなく、見て習うものであった。弟子の間は三度の食事ができるだけで給金はなく、通いの場合、道具は自分で用意していた。 「正月三日、盆二日、おたんや一日で腹が立つ」と言うほど休みは少ない。この外に休めるのは祭の日くらいで、その時には小遣いが出た。 また、正月と盆には下駄と着物 (夏はユカタ、冬はカサネ) を用意してもらえた。

 良い道具は何よりも大事であり、研ぎや目立ては全て自分でした。研ぎ方が悪いときれいに削ることが出来ず、研ぎ方が下手でいつも研ぎ場にいると 「研ぎ屋の番頭」などと言われてからかわれた。
 修業期間が終わる頃には、一応一棹の箪笥が仕上げられるようになる。職人になると、箪笥一棹仕上げていくら、という請負制になるが、技術の善し悪しで親方から渡される材料に差があり、うまくなれば上物をまかされ、削りも楽で収入も良い。
 ちなみに、幅4尺の昇り箪笥一棹作るのに5 日間、間箪笥 (横幅が一間 = 1m80cmのタンス) は7 日から10日間で仕上げていた。また、材料は4尺の箪笥で板が5坪、間箪笥で7坪分の板を必要とした。
 弟子の修業が終わり、1年間のお礼奉公をすると独立することができた。こうした生地作りの職人は、農業と兼業であることが多く、独立すると大手の箪笥屋から図面で指示されて、一棹いくらで請け負って生地作りをするようになる。 箪笥づくりは農閑期の秋から春にかけて忙しく、年末でも夜11時頃まで仕事をしていたという。戦前までは旧暦2月22日に木工関係者が集まりカンナ屑を燃やして盛大に太子祭りが行われていた。その時にはそろって四国の金比羅さんに参ったこともある。また、毎年12月8日の「八日待ち」にはスキヤキが食べ放題で食ベられた。これは戦後になってもしばらく続き、職人達はこの日が来るのを楽しみにして働いた。この日になると府中全ての肉屋の牛肉が空になったと云う。

小組合をつくり構造改善

 昭和の初め広谷材の村長で桑田哲夫という人が、鵜飼地区の箪笥業者に対し特別の理解と協力を示し、家内工業的な生産形態が徐々に改善された。桑田氏は、まず職人衆を集めてお互いに手をつなぐことを奨めた。そして何人かづつグループ化し、職人組合をつくらせたのである。小組合と称したこのグループは、広谷村でこの時4つ誕生している。桑田氏は小組合を励まして問屋に対応させ、自活の方法を真剣に考えさせたのである。小売店へ職人が直販するという、当時としては画期的な営業形態を強力に進めることになった。 一方では、農協から資金を借り受け、丸鋸や手押し鉋盤などの木工機械を積極的に導入させた。幼稚な形ではあるが、動力化したのもこの時である。職人を名古屋に連れて行き木工機械の見学をさせ、買い付けをした他、材料の共同購入なども行っている。
 またその頃は、大消費地の大阪に近い和歌山が箪笥の先進地として栄えており、現地の業者を訪ねて見学した他、四国へ新しい材料を調査・買い付けに行くなど、精力的な啓蒙活動を展開した。
 今日的な用語を使えば 「構造改革」 を推進したわけである。流通形態もこれを機に合理化し、いわゆる府中独特の直販システムの基礎が築かれ、これ以降府中には大きな産地間屋がなくなったのである。

弾薬箱の製造

 昭和12年 7 月 7 日、蘆溝橋事件を発端に日中戦争に突入すると臨戦態勢が強化され、あらゆる面で軍事優先となり、箪笥の生産は次第に困難な環境となる。翌13年には膨大な軍事費を捻出するために箪笥までもが賛沢品として扱われ、物品税が課せられるようになった。また、同時に国家総動員法が公布され物資の統制が始まると、桐製品などの使用が徐々に難しくなり、やがて戦争が激化すると木材はついに割当制となる。
 多くの若者たちは徴用されて戦地へ赴き、職人の数は徐々に少なくなり、更には、木工機械を供出せよとの依頼もある。こうして多くの職場では休業を余儀なくされ、箪笥の生産は中断せざるを得なくなった。残った職人を抱える職場は、山陽木工と日の丸木工の2社に企業合同させられ、弾薬箱の製造に従事することとなる。山陽木工の社長には松坂照三氏が、その専務には助迫幸太郎氏が就任し実務を全て取り仕切った。一方の日の丸木工には赤毛吉次郎氏が社長となった。府中に住む古老の中には弾薬箱を作った経験者がきわめて多い。

戦後の混乱期

 昭和20年8月、終戦を迎えると徴用が解除され、働き盛りの若者が復員するが、戦後の混乱と物資の不足に悩むなか思うような仕事にありつけず、途方に暮れる日々が続く。 こうしたさなか、翌21年の1月頃に進駐車寄宿用の洋服ダンスやロッカーなどの大量発注がなされる。いわゆる“マル進家具”と言われた特需で、戦後の混乱期で仕事がなかった家具産地にとっては、まさに干天の慈雨であった。続いて逓信局 (現在の郵政省) の備品など、官公庁からの受注も次々と舞い込むようになり、産地はにわかに活気づいた。しかし、このような特別注文の家具は競争入札によって行われ、お互いに仕事が欲しいのでむろん談合などは無く、受注価格が安くなりすぎて儲けにならなかったようである。また、仕事があるときは忙しいが、平常は仕事が少ないので職人を遊ばす事が多く、したがって経営は楽でなかった。 誰もが今までのような既製家具の製造に戻りたいと思っていたようである。
 また、戦後の極度のインフレや材料の不足などにより仕事は思うようにはかどらず、辺りには同じ様な悩みをもつ同業者が多くいた。  昭和22年にこうした仲間20数名が集まり、「廿日会」というグループが結成された。平素の会合を月の二十日と決めていたことから「廿日会」の名称が生まれたもので、会の代表に小川京一氏が就いた。この会では、材料及び製品の値段、加工技術などの情報交換が熱心に話し合われ、時には仲間同士が互いに助け合って材料の仕入れや交換、仕事の斡旋なども行われた。こうした小グループは他にもいくつかできていたようで、協同組合結成の土台となった。

組合誕生

 昭和24年6月、国は中小企業の産業振興を図るための施策として「中小企業等協同組合法」を立法化し、事業者同士が互いに助け合い組繊化を図る気運が一気に高まった。これを受けて、同年9月に廿日会を中心にした8名の発起人が石岡桂二氏宅に集まり、組合の設立準備会が開催され、名称や組合員資格、事業内容など定款作成に必要な事項が話し合われた。こうして他のグループなどにも呼び掛けて、10月25日、府中産業会館に53名が出席して「芦品家具工業協同組合」の創立総会が開催され、ここに希望あふれる組合第一歩が記されたのである。初代理事長には小川京一氏が選ばれ、専務理事に松岡穣、石岡桂二、理事に小野與一、助迫幸太郎、佐々木矩一、真田作助、監事に皿田習市、龍田源吉、小森山市郎の各氏が役員に就任した。
 翌年、昭和25年2月14日に法務局において法人の設立登記が完了し、県知事にも設立の届け出を済ませ、協同組合が正式に誕生したのである。なお、当時はまだ市制がしかれていなく旧芦品郡に属していたが、昭和29年3月に6ヵ村町が合併して府中市が誕生すると、組合の名称もこれにあわせて昭和31年に現在の「府中家具工業協同組合」に改称している。

共同事業と見本市

 組合を設立して最初に行った共同事業は、木材、べニヤ、ツキ板などの原材料の共同購入で、昭和26年に始めている。戦後のモノ不足の中にあって、材料の入手難は死活間題であっただけに、全員が極めて熟心に取り組み、朝鮮動乱を経て日本経済が立ち直りはじめ、材料入手が楽になるまで行われた。
 組合発足当時の出荷先は、山陽や山陰地方が中心で、遠方はわずかに過ぎなかったが、やがて道路網の整備や性能の良いトラックの普及などによって、より遠隔地への販路拡張が熱心に語り合われ、共同見本市の開催が計画された。
 府中における第 1 回の家具祭りが行われたのは昭和29年8月で、夏場の滞貨処分を取り敢えずの目標にしたものの成績はあまりかんばしくなかったようである。 昭和31年の第3回家具祭りから技術コンクールが併催され、著名な審査員を招いて夜遅くまで徹底的に指導を求めた。こうした品質努力により府中家具はめきめきとレベルが向上し、成約面でも良い結果を生み出した。やがて産地での共同見本市は定着し、その後、名称を「府中家具新作展示会」と改めて、組合の基幹的な事業に位置付けられるようになった。

婚礼家具セットの開発

 こうした見本市の出品に向けて意欲的な新製品が次々と開発されるようになり、中でも全国に先駆けて開発した婚礼家具セットは産地の将来を方向づけることとなった。
 それまで箪笥屋 (和家具屋) は、和ダンスもしくは整理ダンスを単品で製造し、洋家具屋は洋服ダンスだけを製造していた。他にも棚物屋と言って、本棚や下駄箱だけを作っていた業者もある。それは、伝統的な和家具と近代的な洋家具では、工法や素材が異なっていたからである。そうしたなか、研究熱心で仲の良い府中のグループが、新婚生活をスターとさせるのに必要な家具をトータル化したデザインで取り揃えることが出来たらどんなに素晴らしいことかを話し合い、各社毎、別々に作っていた和ダンス、洋服ダンス、整理ダンスのデザインを互いに統一して、木目の揃った同じツキ板を使った試作品を作った。これを持ち寄ってセットに組んだのが婚礼3点セットの始まりである。
 商品化されたセットの家具が初めて展示会に出品されたのは、昭和31年11月に広島の福屋百貨店で開かれた広島県物産見本市で、大きな注目を集めることとなった。以降、次々と新たな婚礼セットが見本市に出品されて人気を博し、たちまちヒット商品となり、市内の多くの同業者達はそれを見習って婚礼セットの製造を始めた。後に下駄箱をプラスした4点セットや鏡台を含めた5点セットなども登場し、やがて府中は婚礼家具のメッカと言われるまでになった。

コンクル入賞と市場拡大

 昭利30年には全国優良既製家具展示会が東京の白木屋百貨店で開催され、同時に製品コンクールも催され大成功を収めている。第2回は会場がみつからないなどの理由で翌32年に持ち越され、名称も全国優良家具展に変えて開催され、府中はこのとき初めて2社が出品している。以降、この展示会は「全優展」の名で親しまれ、全国市場ヘの登竜門として定着するようになる。回数を重ねる毎に出品社数や来場者も増え、取引面でのメリットもさることながら、最も権威あるコンクールとして位置付けられるようになり、業界がこぞってこれに挑戦したのである。 
 府中がこのコンクールで初めて入賞したのは、第4回大会からで、宮崎家具製作所が全国家具組合連合会長賞を初受賞する。この時の喜びはひとしおで、入賞カップに酒を注ぎ従業員全員が夜遅くまで飲みあかしたと聞く。これにより、府中の業者全員が大きな自信を得るとともに奮起するきっかけとなった。
 その翌年には、5社が大量入賞し、昭和36年の第6回大会では、ついに土井木工製作所がトップの通商産業大臣賞を獲得してしまうのである。その製品はウォールナットの天丸型の収納セットで、加工技術はもとよりセンスあふれるデザインは、文字通り日本一の名にふさわしいものであった。
 府中はこの受賞でますます自信を深め、同時に各社も遅れまじと、一層の技術努力を重ねた。翌年にはマルケイ木工が通商産業大臣賞を再び獲得し、府中に連続してトップ賞をもたらした。その家具は、当時としては全く新しい発想でつくられたノックダウン式の家具で、そのデザインの斬新さと技術の確かさで全国から注目を集めた。この時は、出品会社数がピークの470社を記録した最も盛大な大会であり、全国に一躍府中家具の名がとどろいたのである。審査の講評にたった豊口克平審査委員長が衆目の中で「府中の家具は日本一」の折り紙を付けたのもこの時であった。
 その後も、全優展、全日展においてトップ賞を含めて上位の賞を常に独占し、コンクールの主役を果たすようになるのだが、このことを機に、府中家具の販路は飛躍的に拡大し、生産量のうえでも技術のうえでも第一人者として自他ともに認める産地になったのである。
 知名度向上に寄与すべく、昭和40年には岡本太郎氏により府中家具のシンボルマークが制作された。


 昭和40年1月 シンボルマーク完成 岡本太郎氏と懇談

府中家具の黄金期

 地元府中での展示会が年々盛んになり、全国から大勢のバイヤーが押し寄せるなか、田舎まちの府中には大きな展示会場がなく、当時は文化会館や小学校の体育館などを借りて3会場くらいに分散して不便な展示会を催していた。
 これを解消させるため組合では、昭和43年に府中家具共同センター (3階建、延床面900坪) を建設し、新作家具を一堂に集めて展示会を催すことが可能になり、出品業者並びに仕入客の双方とも大変便利になった。

昭和38年頃の府中家具新作展示会

 センターを建設した40年代は、戦後のべビーブームで出生した、いわゆる団塊の世代と呼ばれる人々が一斉に結婚適齢期を迎え、昭和47年には婚姻組数がピークの110万組に達する空前の結婚ラッシュが到来した。また、日本経済も高度経済成長に支えられて大いに潤い、国民の生活水準が大幅に向上した頃で、新生活へ向けた儀式も一段と華やかになり、競うようにして豪華なお嫁入り道具が支度された。当時は、まだ 「荷送り」という風習が各地で一般化しており、お嫁入り道具を実家から送り出す時と嫁ぎ先ヘ届いた時の双方で、近所や親戚の人たちを呼んで花嫁の調度品を一式並べて披露していたのである。その中でも婚礼家具セットは花形で、見栄や体栽が重んじられた当時は、高級な品を揃えて嫁がせることが親の誇りであった。

 かくして、高級な府中の婚礼家具セットはこの頃、品不足を来すほど爆発的に売れたのである。当時、各販売店は「府中詣で」と称し、展示会で大量の買い付けが行われていた。展示会が近づくと府中・福山のホテルや旅館は仕入客の予約で全て満室となり、あふれた客はしかたなく少し遠い観光地の鞆や尾道などにも宿泊をしていた。 

春の展示会は秋の婚礼シーズンに向けての商談会で、販売店は事前に売上げ予測を立てて展示会で予約注文しておかないと、シーズンの最中に注文してもメーカーは忙しくて納期が間に合わないので、しかたなく注文を断っていたのである。中には、売り先毎に販売数量を事前に割り当てていた家具メーカーもあったと聞く。 
 この時期、各社は大量の需要に対応するため生産ラインの拡張を行い、新工場やショールームが相次いで建設された。 また従業員の不足を補うために九州・沖縄や山陰方面の職業訓練校を、府中市や商工会議所の職員達と一緒にまわって求人活動を行うなど、府中家具は黄金期を迎えたのである。
 こうして、共同センターでの展示会は、出品点数や組合員数の増加によりすぐさま手狭になってしまい、組合は昭和51年にその隣に延ベ床面積1,500坪の「府中家具協同会館」 を新たに建設するに至った。

家具と物品税

 家具には消費税が導入されるまで高い税率の物品税が課せられており、税の撤廃や軽減のための陳情が当時は、組合の重要な活動の一つに掲げられていた。 
 そもそも物品税は、戦時中に軍事費を捻出する目的で時限立法として登場したもので、あくまでも贄沢品に課せられるべきものであったが、何故か家具類も課税対象となり、しかも終戦後には、復興財源捻出の名目にすり替えられて復活したのである。
 一応免税額が設けられ、それより安い製品は非課税となっていたが、物価が上昇すれば課税対象が広がり、その都度、免税額を引き上げてもらうよう政府に対して陳情しなくてはならず、特に、府中のような高級家具の産地ほど税負担が大きいので、常に全国の先頭に立って陳情活動を繰り広げた。組合を設立して間もない昭和25年9月には、早くも府中商工会議所を通じて内閣総理大臣に物品税廃止の陳情を行っている。
 陳情活動を続けるなか、昭和41年には桐タンスと漆塗り家具が非課税となる大きな成果が得られた。これらは高価でどちらかと言えば贅沢品であるが、当時自由民主党の幹事長だった田中角栄氏が伝統工芸品保護の名目で押し切ったもので、氏の選拳区内にある桐夕ンスの産地に配慮したものと言われ、当時から強い権限を持っており大物ぶりを発揮していた。

 陳情活動は物価上昇の度にエスカレートし、昭和48年秋のオイルショックの際は狂乱物価とまで言われ、家具資材の価格もうなぎ登りに値上がりした。同年 4月に免税額が引き上げられたばかりなのに、それを上回るスピードで物価が上昇したのである。たまらず陳情活動の再開となり、全国家具工業連合会と連携して動いたが、一番熱心だったのはやはり府中産地で、大蔵省主計局の担当課長と府中の理事長らが最終的に煮詰めた50%アップの91,000円に免税額が引き上げられることで決着をみた。

 昭和54年には、またもや第二次のオイルショックが深刻化し、同時に熱帯雨林保護のため木材の伐採制限や輸出規制が東南アジア諸国で打ち出され、南洋材が急騰したのである。材料や物品税のアップ部分を価格に転嫁できるような時代では無くなっていたため、まさに死活間題で、業者の不安は極みに達した。 この年8月には、府中家具物品税対策総決起大会を開催し、約3千人の家具関係者が全員鉢巻き姿で市内の会場に集まり気勢をあげた。更に、全国の家具業者達と国会議事堂を取り囲んでデモ行進なども行った。これらの根強い運動が実り、翌年12月の暮れに免税額が136,500円に引き上げられることがやっと内定したのである。
 こうした陳情を通じて我々業者は政治活動の必要性を痛感させられ、昭和56年12月に府中家具産業政治連盟を結成。府中家具のメーカーやそれに関達する企業218社が加盟して、物品税の撒廃を目指した更なる運動が引き続き展開された。
 やがて時代が、昭和から平成に移ると新たな消費税が導入され、戦争の遺物であった物品税はやっと姿を消すこととなった。こうして物品税との長い戦いは昭和の時代とともに幕を閉じたのである。

住宅内装分野ヘの進出

 団塊の世代の結婚ラッシュが過ぎ去ると結婚件数は大幅に減少し、更に、下駄箱やクロ一ゼットが新築住宅に備え付けられるようになり、婚礼家具が主力であった府中産地は「総合インテリア産地」の形成を目指した長期ビジョンを策定して、造り付け家具やドア、キッチン、カウンターなどの住宅内装工事の分野へ進出を目指した。 
 その足掛かりは、府中市が昭和60年に計画した家具付き市営住宅の建設から始まり 、府中家具が新規分野へ進出するための恰好の勉強の場が市から提供されることになった。組合では早速プロジェクトチームを組んで、(株)市浦都市開発建築コンサルタンツの小林明社長の指導を仰ぎながら、その住宅に取り込む造り付け家具の開発に着手した。開発した製品は、家具を移動することによって部屋の間取りが自由に変えられる移動式間仕切家具と言うもので、組合及び関係者達はその優れた出来映えに意欲と自信を持ち、他の公営住宅やマンション等へ普及をることで産地の振興が図れるものと期待が高まった。

 組合では、府中市のバックアップ’のもとに、「地域型住宅部品に関する研究開発」 を財団法人住宅部品開発センター (現、ベターリビング) に委託し、同センターは大学教授や建設省住宅生産課長、府中市長などを巻き込んだ委員会を構成し、いわゆる産学官の交流活動がスタートし、府中家具業界が住宅産業へ進出するための指導や提言など方向性が示された。また、公共住宅へ備付け家具などの住宅部品を組み込むには、優良住宅部品 (BL部品) の認定を受けておくことが有利な条件となることから、移動式間仕切家具の性能試験を行うなどして申請手続きを行い、建設大臣からBL認定を受けることができた。
  こうした動きを受けて、組合は昭和62年4月に内部的な組織として「府中インターハウジング事業部」を設置し、一級建築士などの専従職員を採用して内装工事の共同受注事業を本格的に開始した。
 しかし、建築業界は実績を重視する業界だけに、馴れない家具メーカーが参入するには幾多の困難があった。特に、持注の備付け家具は、モノを造る前に見積金額が安い方へ決まるので品質は二の次となり、素材や技術の良さをセールスポイントとする府中の業者は不利であった。しかし、仕事を少しずつこなすうち、従来の内装業者が行った工事と比較すると府中の家具メーカーが行った方が格段に優れていることが認識してもらえるようになり、一度工事に加わることが出来ると、その建築業者からは、次から徐々に注文が舞い込むようになった。やがて事業も軌道にのり、事業部が発足して5年後の平成4年には、家具組合から独立して「協同組合府中インターハウジング」を設立し、住宅内装工事のほかにも大断面積層材 (LVL) を用いた大規模木造施設の骨組み工事の請負や木製サッシを新規開発するなど、更なる飛躍を目指して活発な事業展開を繰り広げていった。

総合インテリア産地としての活動

 住宅内装分野への参入を果たし総合インテリア産地へと移行した府中家具は、付加価値の高いデザイナー家具の開発や海外進出、内装分野への継続的な参入、家具再生事業など、様々な活動を続けている。

1991年1月 ドイツ・ケルンメッセの府中家具コーナー


2009年1月 NY展レセプションで櫻井大使のスピーチ

【参考文献】

  • 「飛躍 府中家具25年の歩みと未来への展望」 昭和50年 府中家具工業協同組合発行
  • 「箪笥」小泉和子著 昭和57年 (財)法政大学出版局発行
  • 「府中タンスを語る」 杉原茂著 平成3年 府中商工会議所発行けいざい情報への連載
  • 「広島県の諸職」平成6年 広島県教育委員会発行
  • 「府中家具工業協同組合 創立50周年記念誌」 平成12年 府中家具工業協同組合発行